「子供と台所」

PCの中に詰め込まれた文書を整理中。
ある雑誌の 「子供と台所」という特集に寄せた文章が出てきた。


昭和38年生まれの僕が、まだ子供だった頃。台所のことを我が家では「お勝手場」と呼んでいた。二段ほど下がった、冷たい土間のコンクリートに張られた木の床。タイル貼りの流し、ガス釜、風呂の焚きつけ口が、薄暗い記憶の中に浮かんでくる。その「お勝手場」に、新たに床が張られ、明るく生まれ変わったのは、僕が大学生の時。その頃から恐らく、僕の中で「お勝手場」が「台所」に変わり、最近では無意識に「キッチン」という横文字も使っている。
僕にとっての「お勝手場」。そこには、楽しく食事を作るという、場の記憶はなく、家事に追われ忙しく動き回る母親の後ろ姿を、何となく意識する場であったような気がする。まだ夜が明けきらぬ、暗く冷たい朝。一階の「お勝手場」から聞こえてくる「シャーカ、シャーカ、シャーカ」。鰹節を削る小気味良い音と共に・・・。

 調理に、皿洗い、食器拭き。休日の我が家では、家族皆が台所に立つ。
前掛けをギュッと締め、僕が台所に向かうと、いつの間にか子供達は僕の隣に立っている。慌しく家事に追われる母親よりも、仕事の気分転換や趣味の延長で台所に立つ僕の方が、付け入る隙があるみたい。
「一緒にやりたい、やりたい!」という元気な娘の声。
「お皿は拭いとくからいいよ!」という優しい息子の声。

一方、家人は毎日の食事を作るという姿を通して、子供に何か大切な事を伝えている。
息子が初めて本格的な食事を作ったのは、そんな家人が頭痛で寝込んでいた休日の朝。
何やら、台所から聞こえる物音。階段をそっと降り、覗いてみると、其処には息子の姿。
「今日は、僕が作るからいいよ」。
慣れない手付きで、鰹節を削り、味噌を溶き・・・。
食卓に並んだのは、サラダに玉子焼、ワカメの味噌汁。そして、炊き立ての白いご飯。

住まいの中で、親と子供が共に働くことができる、唯一残された場所が台所なのかも知れない。子供と一緒に台所に立つ。共に立たずとも、忙しそうな親の姿、楽しそうな親の姿を子供達が見つめることで、伝えずとも何かが伝わって行く。「伝えること」と、「伝わること」は別のこと。面と向かって話をすれば、親の気持ちが伝わると思うのは親の思い込みかも知れない。
子供に背を向け、忙しく食事の準備に追われる母親と、その姿に気遣いながら声を掛け、言葉少なに交わす会話の中に、さり気ない優しさや心遣いが生まれてくるような気もする。
僕にとって、面と向かった親との会話は、何となく気恥ずかしいものだった。

7年前に書いた文章です。
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by a-kashi | 2017-03-06 18:31 | 暮らし | Comments(0)